「室長!家の風蘭を見ていると、研究室の棚の風蘭見たくなりました!」「この風蘭も見てよ!」
26.11.20(晴れ時々曇り)
最低気温が7度、最高気温が19度でした。
風蘭業務は、御前中、来室者が2名あり、室長は、愛好家と風蘭を観賞を楽しんだり、ミニ展示の風蘭の花を愛好家と鑑賞しながら至福の時間を過ごしました。 午後から、司法書士業務の要件では、売買による所有権移転登記の打ち合わせに安芸市まで出張で、二束の草鞋の両方の事務所も午後4時までお休みでした。
今日の風蘭の紹介は、愛好家が見つけた奄美産(白縞斑)の仮銘「夢牡丹」と出張先の高知県安芸市の「JR安芸駅(前編)」を紹介します。
まず、奄美産(白縞斑)の仮銘「夢牡丹」です。
少しアップしてみます。更にアップしてみます。
裏からもアップしてみます。
上からもアップしてみます。
そこで、今年根の生長が遅いが、この奄美産は綺麗な根が動いているのを愛好家が見つけてくれました。
高知県安芸市の「JR安芸駅(前編)」です。
弘田龍太郎は、明治25年(1892年)6月30日安芸市土居に生まれました。父は明治初期の高知県議会議長もつとめた弘田正郎。教育者である父の転任に従って、幼時に安芸市を去り三重県立第一中学校から東京音楽学校に入ります。卒業後は、母校の講師を経て教授となり、筝曲の宮城道雄らと共に新日本音楽運動に参加し、日本舞踊に洋風伴奏を取り入れ新鮮な活動が注目されました。
また大正8年「靴が鳴る」、大正9年に「浜千鳥」「叱られて」を作曲。昭和3年には、文部省在外研究員としてドイツに留学し、作曲・ピアノを研究しました。作曲家として優れた才能を持ち、童謡はもとより、歌曲、器学曲など広い分野での作曲活動を行います。
晩年は幼児教育にたずさわり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたります。昭和27年(1952年)病のため東京の自宅で永眠。大正・昭和初期の日本の代表的な作曲家。
歌がながれるようになっています。
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